雄武の遺跡探訪

ウォロカムイチャシ跡から幌内大橋を眺望・・・遥か彼方にオホーツク海

 10月30日、観光資源掘り起こし事業として企画したところ北海道新聞さんで紹介され、町外の方3名、町内の方5名のご参加を頂いて実施することができました。講師は名寄市在住の氏江敏文さんでした。(日本考古学協会員・北海道考古学会々員、高校時代に雄武町域の遺跡発掘調査にも参加)

雄武町域を流れる幌内川下流域にはアイヌの遺跡であるチャシ跡が点在しています。自然の丘陵や崖などの地形を利用し、壕や柵などで区画して構築した施設です。戦前からは「砦」ともいわれていましたが、その後の研究からは、交通の要や見張り場、会議の場、神聖な信仰の場など様々な機能があったことが明らかにされてきております。「チャシ」はアイヌの社会では大切な施設・空間であったと考えられています。氏江さんから貴重な写真資料や歴史年表に基づいて解説があり、いよいよ現地へ出発です。

アイヌのチャシと雄武の遺跡の解説

 最初に高野農場さんのご協力で敷地内にある「高野チャシ跡」を見学しました。

アイキャッチ
高野チャシ跡(露出する岩肌の上)
ウォロカムイチャシ跡からリーチャシ跡と幌内川を展望

 次に幌内大橋近くのウォロカムイチャシ跡へ向いました。「ウォロカムイ」とは「水神」のことで、昭和37年に刊行された「雄武町の歴史」には「幌内川の川魚を見守る水神のましますところと考えられていたのかもしれない」とあり、断崖から見下ろす蛇行する川の眺望は見事です。遠望するリーチャシ跡からは数千年前の縄文土器も出土しています。また同書には「高くそそり立つ砦址」の意味とあり、「・・・これほどけわしく高くみごとなものは他に例を見ない・・・」とも記されています。

ウォロカムイチャシ跡から幌内川を眺望

「ふりかえり」として、更に上流にあるアイヌ語地名の「オ・ポール・ウニ」という川岸を訪れました。この地名は松浦武四郎が記した「東西蝦夷山川地理取調図」(1859 安政6年)にも書かれております。「雄武町の歴史」には「川口に洞窟がある」小川とされておりますが、講師によると「いくつかある洞窟の中でもここが一番明瞭で大きい」とのことです。江戸時代の末期から既にアイヌの中では認識されており、歴史的にも由緒のある場所といえましょう。

オ・ポール・ウニ 幌内川河畔で「ふりかえり」

 ウォロカムイチャシ跡では、ご参加の皆様も氏江さんの含蓄溢れる案内に感化され、なかには急な岩肌に戸惑った方もいましたが、結局頂上まで上がり、新たな気づきと学びを深めておられました。

 今回は関係者のご理解とご協力により雄武の歴史を掘り起こす、始まりの第一歩となりました。

 今後、観光協会としても地域で誇れる宝を掘り起こして、大切に守りながら、それらの価値を共有していくシステムを、皆様と一緒に考えて進めたいと思います。

先の31日の記事内容に誤りがあり、多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。

この企画は講師氏江さんのご好意により実施されましたが、専門的な知見の記述面で、同氏の了解を得ないまま観光協会ホームページに掲載したことによりご迷惑をかける結果となってしまいました。誠に申しわけありません。具体的には町史の遺跡について記述された河野広道先生の経歴について、雄武高校元教諭、都立大学教授と紹介しましたが誤りでした。また町史の引用文についても、文脈を考慮しないつながりで、恣意的な記述になってしまいました。また貴重なアイヌ文化遺跡にそぐわない、個人的な感想レベルの記述があり、誤解を生じかねない内容でした。氏江氏は心底から雄武町に感謝の思いの強い方で、講師料も断られ多忙な中ご協力を頂きました。前回の記事で「氏江さんはぜひ子ども達も案内して地元愛の醸成に貢献したいと話されています。」と記しましたが、子ども達にも見てもらいたいと話されていたとは思うのですが、貢献したいとか、構えるような物言いではなく、ごく自然に情のこもった言葉遣いと情愛深い、人類愛に基づいた真摯な考古学者だと感じています。今後とも次世代が担う雄武町の未来のためにもご協力をお願いできれば有り難いと思います。掲載記事については事実チェックを入念に重ねて参りますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。

                            特定非営利活動法人 雄武町観光協会  後藤 勝